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 〇  開始の完了


 彼女は空から落ちてきた。地面を基準としてたかだか四十センチほどの空ではあるが、確かに彼女は虚空から現れ、そして落ちた。うつぶせのまま、軽いうめきを上げた彼女は手だけの力で上体を起こそうとする。痛みのせいか、腕は震えていた。
「ここは……?」
 疑問の声を上げ、周囲を見回す。短い黒髪が揺れ、その内からつり目と垂れた太い眉が生来の弱気を醸し出しつつ、視線は過たず観察を全うする。彼女の視界に入る物体は人工物の白ばかりだ。病院のような白い床、渡り廊下のような継ぎ目の目立たぬ細長く白い壁、同じく継ぎ目無く続く天井には、断続の白が上乗せされている。蛍光灯だ。
「おかえり」
 声のする背後へ顔を向ければ、彼女にとって見覚えのある顔があった。コーヒーカップを持ち、しゃがみ込むのは青年で。
「ああ、私……」
 頭を押さえ、立ち上がりつつ彼女は首を振る。青年の笑顔があった。ただの笑み、彼女はそう受け取った。自分の困難を当然のように受け止めてくれる笑顔だと、常々思っている。自身に降りかかる数々の非常識を大仰に受け止められないことは、過剰な特別扱いをしない姿勢の表れだと感じていた。日常がここにあると、帰ってきた実感を思えるのだ。
「今、大丈夫?」
 青年が問う。
「多分」
「いくつ?」
 短い疑問に娘は目をつぶり、ゆっくりと数を数える。記憶にある場面の切り替えをたぐり、加算を繰り返した。
「やっぱり、二十ですね」
 ふぅん、とは青年の発する言葉があり、それは気のないといった様子でもなく、そして深刻な思慮の音色でもない。軽く考える、そういう様子の似合う発音だった。
「変化がないんだ。君の物として確定したんだろうね」
「そう、ですか」
「拒否も、否定もされない君だよ。清佳(きよか)さん」
 そうだと良いですね、そう彼女、清佳は言うと、ゆっくりと眠気に体を預け、うつぶせのまま靜に寝息を立て始める。
「うわ、ちょっと」
 うろたえ、コーヒーをこぼす青年が毛布を清佳に掛けたのは、五分後のことだ。

 青年は、まとめと記されたノートを眺めている。清佳の居ない部屋、改めて淹れたコーヒーはまだ湯気を吐く。
「寝起きで書くのだもの。心配になる」
 私の不安、と冒頭にあるノートは、清佳の、そして彼の不安でもあった。
 記録は確かに彼の指示ではある。だが感情の整理がつかぬまま己の感情を吐露するように書かれたそれを読むと、まるで精神科医になったような気分になった。
「気休めにしかならないんだけどね」
 独り言をきっかけに、冒頭から読み始めた。何度も読んだ冒頭から、当然のように。



 一  断片を回顧すること


『私がこうなったのには、理由がありました。二つありました。
 一つは高校の後輩です。彼女は悲しみで涙を流すと時間を跳躍してしまうらしいのです。それを、私は引き受けました。どうやったかは分かりません。ですが、引き受けました。
 もう一つは事故です。彼女の不思議な力を受け取った私は悲しくもないのに飛んでしまいました。いつの時代かも分かりません。ただ飛んだときに、上から飛行機が落ちてきたのです。
 ずれました、私。落下した飛行機を見て実感したんです。一瞬で一キロメートルは確実に飛んだと思います。
 それから、私は元居た時間と場所には戻れず、たくさんの時間を飛びました。一つ一つがまるで夢のようで。悪い夢ならさめて欲しいと思いました。
 さめたのでしょうか、私は。』

 一週間後の記録には、こうある。
『これを報告のまとめに書き込むことは洋司さんにとっては何の利益がないと思います。ですけれど、私の覚え書きとして書いておきます。書くことがないからです。自分の家でもないここを一生の家にすることは、まだ私にとって整理の付かないことだからだと思います。
 跳躍の終着点は真っ白な部屋でした。窓のない渡り廊下は海にあるって洋司さんは言ってましたね。時間も場所も分からないこの部屋では、私の知る情報は洋司さんの言うことしかありません。だから、それが大事だと、ヒントかもしれないと思って書いておきます。私の飛んだ場所で一番分からないここがこの先の居場所だなんて不思議で仕方ありません。
 私の跳躍は病気ではないとのことでした。初対面の洋司さんは私と同じ歳のように見えました。正しくは私が十八で、あなたが十七歳と十一ヶ月。少しだけ近い年の差だったと覚えています。日付が分からないここだと、このまとめだけが私のカレンダーのような気がします。
 私は世界が必要とする存在、でいいのですね。今は洋司さんが必要な私としか実感できません。ですが、洋司さんの調べ、知っていることは私の体験したことに合致していました。だからそれも信じることにします。』

 一ヶ月後の記録は、それまでの記憶よりも落ち着いた筆跡が精神状態を示しているように感じるものだった。
『私が跳躍する先は、一度限りだと言うこと。同じ世界に跳躍しても私は同じ時間に着地できないということ。その世界で違和感なく過ごせる能力と服装になってしまうこと。一番不思議な現象です。
 私がすること、それがどんな事であろうと世界は受け入れること。よくよく考えたら私が悪事を働いても世界が必要とするのかが疑問です。ですけど、きっと私はありのままに生きるだけで終わると思います。そこまで世界は私を知っているのかと思ったら、少しだけ寒気がしました。』

「清佳さん、本当いい人だなぁ」
 洋司が苦笑し、読むことを停止する。そして再び、紙をめくる音一つ。

『二度目の跳躍が始まりました。洋司さんが読みづらいと思いますので、着陸した場所の記録は別のノートにまとめておきます。
 少し不安になりました。何もしていません。そして、同じ数の跳躍回数でした。怖くなって、これ以上書くことが出来ません。必要とされているって本当ですか?』

 表情だけ、洋司はかすかに変化をさせる。そして進んだ。

『記憶が曖昧です。必死に何かしようとして何もしない私の裏付けでしょうか。』
 
 淡々とした報告がいくつも並んだ。跳躍の報告も混じってはいるが、進展はないとまとめられた物ばかりだ。そして半年分を読み進めれば、再び長文がある。
 『分かったことが一つ増えました。一つの世界でする仕事(なんだかは私もよく知らないことですけど)を終えたら、いくら跳躍してもそこにはたどり着かないと言うこと。もう二度とあれだけ美しいと思ったあの場所へはたどり着けません。世界の数がいくらあるのかは分かりませんが、何度も着地したその場所へ、もう行くことが出来なくなっていると気づきました。それは、十三度目の跳躍を終えてから、十回ほど「仕事に出た」時に思いついた仮説です。今回、多分二十六回くらいでしょうか、そのことに気づいたのです。
 私の居て良い世界は、どこなのでしょうか。そう思っていると眠れません。もし、世界の数に限界があるのなら、私の跳躍はどこで止まるのでしょう』

 紙が歪んでいることに洋司は気づく。涙の跡だと思い、しかし留まらず続くページをめくる。最新の報告がそこにあった。
 長々と記される文章の頭には昨日、始まった記述より数えれば一年半が経過していた。
『同業に会うのも数回目になりました。同業だと思うことにします。他の表現を使うと必要以上に恐怖を覚えてしまうような気がするためです。
 そして、分かりました。あの胸のうずきが何故生まれるのかと言うことを。
 激しい耳鳴りのあるとき、その世界で仕事が終わるのです。仕事が終わること、すなわち耳鳴りの出た世界というわけではないのですけれど。あの耳鳴りがあれば仕事が終わる跳躍であることは確かです。理由は分かりません。ですが、気づいたときには寂しさがありました。知らぬ間にいなくなってしまった隣人よりも、去ることが分かっている隣人では、惜しむ時間が生まれてしまいます。すばらしいと思った世界で生まれた耳鳴りは、苦痛でしか無く。
 まるで、執行前の受刑者みたいです。』

 思い詰めた例えに洋司がため息を吐く。
「辛いよね。僕も辛いけど」
 ノートを置く。そして眠る清佳を見つめ、しばらくの沈黙。
「観測者の役割、なんで僕なのかな」
 気付けば居た、この部屋を思う。
「何のためにこれをやるんだろうか」
 目を伏せれば、先ほどのノートが視線に入った。
「ん?」
 手元のペン立てより鉛筆を取り出し、ノートに黒の先端をすりつける。
 消された痕跡が浮かぶ、その行為に彼は少々の罪悪感を覚えつつ、彼女のためになるのかもしれないと言い訳じみた理由を付け加えた。
 行為を終えれば、少々の後悔が生まれた。
『ところで、洋司さんの観測は私のことをしっかり見ていますか? 少し聞きたいことがあるのです。
 私の名字、何ですか?
 どこかに置いてきたのか、忘れてしまいました。』
「分からないよ……」
 つぶやく言葉は誰にも届かない。
「僕自身もね、名字が分からない」



 二  跳躍


 清佳の長い眠りは十日を過ぎた頃に終了した。いつものことだと思いつつ、洋司は当然のようにあれこれと構う。日常を与えてやることを己の義務であるかのように行う行為は、清佳の弱気な表情が少し弱気程度で表現できれば一安心となる。
「散歩、行ってきますね」
「うん。今日は良い天気だよ」
 窓のない渡り廊下の向こう、徒歩では一時間ほどの先にドアがある。部屋のない渡り廊下は、外という部屋にしか続かない。
 奇妙な部屋だ。外からここを見ても、四角い箱なのだ。

 外に出た清佳は一つ深呼吸すると、何も変わらない海を見た。箱のある海岸と、海。いくら眺めても鳥一匹見つからない空、ごく小さな無人島にはそれしかなかった。
 それでも、彼女はこの景色が好きだった。昇る朝日も、沈む夕日も、潮風も、彼女を包み込む波の音も、全てが彼女が安定した世界の物だからだ。帰ってきた実感がわくのは洋司とこの風景だけだと思い、安堵の呼吸から目を閉じた。両手を広げ、風を体にまとわせる。ゆったりとした動きが砂浜の感覚を彼女に与えた。朝日が昇るその直前、青に彩られた世界の静謐な空気が体を包み、肺に満たされた空気は朝露の湿度があり、それが体を巡れば汚れた何かが入れ替わっていく錯覚がある。
――今度はどこへ行くのでしょう。
 新たな不意の旅立ちを思うとき、この場所でだけは少しだけ不安が薄れた。
 室内でなければ仕事が始まらない。そういう法則を何となく感じていた。どこへも行かない安心感が彼女を落ち着かせる理由だ。
――何を得て、何を為すか。
 実感はない。しかし彼女は分かっている。少しずつ自分が何かを得ていることを。少なくとも時間と記憶は得ている。成長もした。
――願わくば、誰かを幸せに。
 ささやかな願いを受理するかのように、少しだけ大きな波が音を立てた。

 清佳は一息し、そしてドアを開けた。部屋に戻ると、胸が大きく脈打った。
――来た。
「洋司……さ……んっ!」
 呼吸の苦しみと戦いながら、必死に声を出し、清佳は叫んだ。
 膝をつき、胸を押さえながらはいつくばるようにして洋司へ向け、彼女は進む。
「来たんだね!」
 走り寄ってきた洋司が遠くから声をかけた。清佳の視界が霞む。それでも努めて当然の現象であるかのように表情をいつもの弱気そうな物に戻そうとした。
「行ってきます……今度こそ……後悔のない結果があれば……いい……ですっ……」
 言うと、消えた。
「見ているよ……清佳さん。君の行くところ、全て」
 ただ一人残された広い廊下に響く洋司のつぶやきは、今ここから消えた清佳に届かせようとする意志がある。



 三  到着できない浮遊感


 清佳の跳躍は無事に完了した。相も変わらず地上ではない、だが。
「えっ?」
 落下はしなかった。浮いたままなのだ。落下に備え堅くしていた体が空回りをすると、空中を回転して漂った。
――これって、重力が……あ、低いだけですね。
 回る視界の中、柱が見えた。手足をばたつかせ、ようやくバランスを取った清佳がそれを確かめるように目をこらせば、遠くにあるであろう、薄もやで設置部を隠した柱より光が生まれる。
「あれは……」
 自分を確かめるように言葉を口にした。光点の一つが尾を引き、上空を旋回すると光の軌跡は消えた。変化は終わらず代わりとばかりに光は拡大する。
――ひょっとして。
 近づいてきていた。光の塊は距離と共に形状を具体的にしていく。光は白色の鳥に似た物体から吐き出されており、二本の角のような物がV字に突き出している。そして、人が乗っている様子があった。
 謎の物体が近づく状況を、清佳は何度も経験している。今回の場合は動くことをやめた。逃げれば逆に悪い印象を与えるケースが多かったためだ。もし生物であったらこれは賭けであったが、人間が御すると思しき物体ではその場に留まった方が良い。光る乗り物を見つめたまま数秒、それは眼前で停止した。
「こちらは第二アロイベース防衛隊研究チーム所属、ルナサードです。貴女は重力操作圏内に進入しています」
 答えに詰まり、白色の乗り物を凝視すれば、それはバイクのようでもあり、鳥のようでもあった。嘴のような先端に、鳥の後頭部と思しき箇所にあるハンドルを風から守るように生え、後部まで流れるV字の角、細長いボディから生えた小さな飛行機のような翼に、三角形の尻尾が後部へ長く伸びていた。嫌でも耳に入る甲高く禍々しい声はジェット機のタービン音のようで、それが混声合唱を行う音色は不快としか思えなかった。重ねて、耳鳴りがした。清佳の体が仕事を感じている。それをただの耳鳴りと無視することは、仕事を意識して不可解な行動をした過去が学習させたことだ。
 白色機にまたがる姿を続いて眺めた。その姿は清佳に歳も格好も似ていると彼女は思う。短い金髪、つり目までは近いが、表情は無機質で眉は薄い。首元に巻いた青いマフラーは、彼女を包む、先ほど防衛隊と告げられた制服であろうジャケットとズボンの白に飾られた青のラインと合っていた。
 そこではたと気づき、清佳は己を見つめた。ブラウスにタイトミニスカート、そして白衣といった出で立ちは、
――まるで研究者みたいですね。
「答えなさい。返答無き場合はしかるべき対応をします」
 はたと目の覚めたような清佳は焦り、当たり障りのない返答を考えようとして、不可能だと気付く。
――とりあえず。
「重力操作圏内……ですか?」
「貴女は研究員のようですが」
「え、えっと……私この辺りは初めてで……」
「本部。不審人物を発見。荷重テストを兼ねて連行します」
 この低い重力下で機体は良く動いた。清佳が疑問の声を発する前に、ルナサードと名乗った娘は清佳の背後へ回り込み、素早く両手を掴むと、片手でまとめ上げた。
「い……痛っ!」
 清佳がねじり上げた腕から生まれた痛みに体をよじると、下半身が宙に浮く。
「うぅっ……いた……」
 拘束された両手が動きの中心となった清佳は、己の運動で痛みを更に強めてしまった。必死に足をばたつかせ、元の位置へ戻ろうとすれば、
「抵抗は無意味です」
ルナサードが手早く片手で手錠をかけた。手錠をかけた手が動作を完了するまでに、清佳に体を寄せ、押しつける。押されるがままになった清佳は白色機の後部シートと思しきくぼみに押しやられ、転げ落ちるようにしてたどり着いたそこから清佳が起き上がると、ルナサードは前のシートへととりついていた。
「ガウシア帰投する」
「ガウシア?」
 清佳の疑問に、ルナサードの平坦な瞳が彼女を射貫いた。
「どこかに捕まらねば落下の可能性があります」
「は……はぁ」
 駆動音が高まった。動作を始める用意が音色で誰にも分かる。そして、苦痛の声が一つ。
「どこか怪我を……?」
「問題ありません。おとなしくしていてください」
 返答をする前に加速が始まり、慌ててシートに爪を立てた。
「ひっ……早!」
「おとなしく」
 振り向き、短い言葉が一つ。
 結局、目的地である第二アロイベースと言われた柱にたどり着くまで、このやりとりは数回続いた。



 四 円筒庭園


 円柱は、円筒だった。円筒の頂上より進入した白色機ガウシアは底面に見える灰色のプールへ向けゆっくりと下降していく。円筒の側面には無数の建造物が生え、その隙間を降下するには螺旋軌道をたどるのが安全だと思われた。だが、空中制御が優秀であるのか、直線の軌道でガウシアは底面へたどり着いた。灰色のプールと思われたそれは滑走路であり、しかしながら現在清佳の搭乗しているような形状をした物はなく、清佳の記憶にも残る飛行機やヘリのみがある。
「これより貴女を拘束します。尋問次第では待遇を考えます」
「あの、あの!」
 必死の呼びかけを行う清佳は腕を引かれたまま、遠くなるルナサードへ声をかけたつもりだった。振り向かない彼女には、つもりという行為だと清佳は思う。

『ですから……私、他の世界から来たんです。……多分』
 スピーカーから流れる清佳の声は、何度も同じ言葉を発するテープのような応答だ。
「駄目だな。嘘の様子もない。質問にもまったくとりつく島がない
 直立したルナサードと同じ制服に身を包む男が腕を組んだまま呟く。つぶやきに答える者はなく、声ではない音色が返答のタイミングで鳴った。重い物を吸い込むような音色で動くのは自動ドアだ。
「お呼びですか、大尉」
 開いた空間より現れた人影は敬礼一つ、そして完了の動作のまま動かない。
「ルナサード、お前はどこから彼女を連れてきた?」
「重力操作圏ですが」
「センサーのログはあるか」
「ここに」
 紙片は多数集まれば書物となる。センサーのログとしてルナサードが提示した資料はまさしく書物と相応しい厚みと重さがあった。しばらく大尉と呼ばれた男が紙をめくる音のみがあり、
『ですから』
 清佳の弁明も時折リピートされた。
「うぅむ」
 うなる声は資料の閲覧完了と同時に生まれた。
「確かに、突然反応が生まれているな。それも、センサーの範囲から入り込んだ場所だ」
「ステルスの類は?」
「あるわけがない。全てのセンサーを殺すような装置があの服装におさまるなら話は別だが」
「では、」
 いかが致しましょう、という言葉は飲み込んだ。
「しばらく、お前がつけ。監視と案内でもしてやれ」
「了解です」
 機械的な敬礼を一度下げ、再び行う。
「くだらない実験よりはましだろう」
 その言葉に、ルナサードが片眉を震えさせた。

「なるほど、重力操作をしているのはこの建造物を維持するため、そして」
 上空を見上げるのは解放された清佳だ。巨大な円筒の内部は広いが、遠い頂上から見える空は小さく、乱立する建造物と外壁に遮られ、かすかな光が差し込むだけだ。それでも周囲が知覚できるのは、人工の光が多いためだと即座に理解する。
「外部からの攻撃を、主に射撃を和らげるため、ですか」
 地を、横を見ればルナサードが直立している。
「推測だけは立派ですね。やはりどこかの」
「ち、違います! あの、私やっぱり疑われて?」
 うろたえの仕草は慣れてしまった。彼女の弱気な表情は、二十を越えた今、数年重ねた跳躍の経験が強めてしまった。
「そのために私が居ます」
 そうですか、と清佳は地に言葉を吐くと両肩に重みを感じた。重力が軽減されるとはいえ、心にかかる重みは変わらないらしい。ところで、と重みを振り切るように言葉を続け、彼女はルナサードへと顔を向ける。
「あの乗り物、ガウシアでしたっけ?」
「ガウシアは私達ルナプロジェクトで開発された機体です。光によって操縦者を守りながらにそれを推力とし、宇宙への進出を可能にします」
 まばたきを数回、それが清佳の返答だ。
「それ……話していいんですか?」
「この程度の情報開示は済んでいます」
 かすかな自然光が薄らぐ上を見た。きっと夕方だと確信する前に建造物の時計が目に入る。午後四時、その表示を自分の国で当てはめれば、そろそろ秋から冬といったところかと考察する。何気ない事で故郷を思うのは、彼女の癖だ。
「宇宙……行けるんですね」
 上を見つめたまま清佳が言葉を紡いだ。
「理論上では」
「では、試してないんですか?」
 清佳がルナサードを見れば、彼女も空を見上げている。
「現状では無理でしょう」
「それは、何故?」
「黙秘します」
 言葉が終わりきる前にルナサードは歩き始めた。小走りに追いかけ、言葉を作る清佳への返答は全て黙秘の一言だ。
 とりつく島もなく、とりあえず追従する清佳は問う言葉を選びつつ、慣れないヒールに辟易していた。
「あの、ガウシアって……深海生物の?」
「詳しいですね」
「ええ、まあ……深海にも何度か行きましたから」
 立ち止まったルナサードが見つめる者は、立ち止まるタイミングを誤り彼女の背にぶつかった。思わず頭を押さえる清佳を冷たい視線で見つめたルナサードは視線を前へ。
「やはり、貴女は油断ならない人のようで」
 困った表情で清佳は返す。愛想笑いも付けた。それを見つめないルナサードが向かう先、発着港のそばにある倉庫へ向けて、彼女も歩を進めた。

 静かな空間だ。清佳が倉庫だと思った物は格納庫でもなく、工場だった。照明もろくに点されていない工場では通路のラインだけが目立っていた。それをはみ出さぬように歩く。視線を巡らせても工作機械の類は全く動作していない。数字を示すデジタルカウンターだけが点灯したものもあり、静けさの中、機械に監視されているような居心地の悪さがあった。清佳が内部を確認すると、背を向けたまま横目でこちらの到着を確認したルナサードが立ち止まっていた。清佳が小走りに合流すれば、彼女は再び歩き出す。
 人の気配がある小さな部屋には明かりがともり、そこが終着点なのかと清佳は歩を速めた。追いつく清佳を確認もせず、ルナサードはドアを開け、敬礼の姿勢を取った。
「ご苦労様です」
「曹長か。明日からしばらくは任務凍結だ」
 身じろぎ一つせず、聞き返した。清佳にはそう見えた。
「では、私は?」
「監視を続けろ」
「了解です」
「下がれ」
 短い言葉に返るルナサードの言葉は同じく短い。素早く踵を返す彼女に清佳は慌てて道を譲り、そして追いかける。
「あっ、あのっ! ひょっとして私の……?」
「余計な考えは兵士のする仕事ではありません」
 押し黙った清佳を連れ、ルナサードは発着港から離れていく。先に見える無数の建造物が何かは分からず。
「あの、どこへ?」
「兵舎です。捕虜でもなく、自由でもない貴女を置く場所は私の近くしかありませんので」
 相づちも聞かず、彼女は歩いた。振り回される清佳がため息を吐き、それでも進む意志を一歩目に込めれば、軽い重力が彼女を浮かせた。
 ルナサードはそれすら見ない。

 清佳は、ルナサードの部屋まで案内された。
「ここで好きに過ごしていてもらえれば、何もしません」
「あの……あなたの部屋だとして……えっと?」
 家具は一人分であり、二人で過ごすには手狭だ。特に、
「床で寝るしかないですね……」
「貴女の監視が私の仕事ですので、ベッドは使って構いません」
 それは、と清佳が言葉を紡ぐと、ドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼しますよ」
 ドアを開けたのは年の頃なら清佳やルナサードと同じ、若い男だ。少々軽薄そうな佇まいがあったが、悪い印象をさほど持てないのは不思議だと清佳は思う。
「何用か、伍長」
「指令です。明日から非番、しかし監視を怠るな、ってことで」
 書類を渡し、あと、と告げた男は清佳を指さすと、
「そちらの件、よろしく」
 そう言うと手だけの軽い挨拶をして手早く去っていった。

 取り残された錯覚を覚えた清佳は、無表情な彼女の顔を見た。
何も言わず、書類を読み、そうしてからこちらをただ見つめている瞳が、少しだけ揺れて見えた。
「明日は非番ですが、貴女の監視に使います。ただ」
 無表情で書類を渡される。
「軍施設には近づかないこと……私、警戒されてます?」
「十分に」
 うぅん、とうなり、困った様子を見せた。
「じゃあ……市街地の案内を」
「不必要です」
 即答に思わず仰け反ってしまう。気を取り直し、姿勢も直す。
「ですけど、施設ですからね……ここも」
「分かりました。伺ってみます」
 これも即答だ。
――まるでコンピュータみたいです。
 少しだけ寂しい思考をしつつ、夜は更ける。
 することもなく、清佳は部屋にある窓から空を眺めた。
「今日は半月、ですか」
「違います。外壁が常に月を遮っているだけです」
――私の心情もこういう形ですね。色々隠されて。
 言葉にせず、窓を眺め続けた。



 五 揺れる停滞


 翌朝、午前五時に身支度を調えるルナサードの発する音が、清佳を覚醒させるきっかけになった。眠い目を擦り、着替えをしようとして、手を止めた。
――着の身着のままでした。
 行為の失敗と、己の服装に赤面すると、ベッドから抜け出し洗面所へ向かう。
「おはようございます」
「市街へ向かいます。案内をご所望の様でしたので」
「あの……朝早すぎませんか?」
「任務ですので」
「あああっ、ちょっと、腕引っ張らないでくださいっ……ってまだ、寝癖……寝癖がぁー!」
――思ったより強い人です。
 表情に出さぬまま、尋問の時より感じていた適応力にルナサードは結論を出す。警戒を解く必要はない、と。

「どこへ行くんですか?」
 手櫛で体裁を整えた清佳が問う。
「案内を依頼したのは貴女です」
 昨日と寸分違わぬ外見を維持したルナサードは答える。
「では……」
 行き先を探すべく、清佳の視線がベースを巡る。
 薄明かりの差し込む円筒内部は、それでも外部より暗闇が強い。まるで冬の朝のように全てが眠っているかのようだった。あらゆる色彩にシアンをぶちまけたような街は、イエローとマゼンダの多い二人の肌だけが異質に存在しているようで、世界に取り残されているような錯覚がある。あるいは、
――世界の境目に迷い込んでいるような。
「今、この時間に稼働している施設はありますか?」
「容易に立ち入ることが出来る場所と限定すれば、中央公園以外に無いでしょう」
――選択肢すら無いのに、何で聞くかなぁ。
 清佳の嘆息は白く、太陽の恩恵はまだここに届かない。

 早朝の公園は、静けさだけがある。外部へ壁を持ち、重力を操作されたこの空間には鳥すら進入しないらしい。木々はあり、風は上空から時折吹き下ろされるものの、鳥の鳴き声はない。故に、活気も街の目覚めるきっかけも感じられない。
「本日二十一時までは兵舎へ戻ることはできませんので」
「そう、ですかぁ……」
 残り十五時間強、このような扱いが続くと思うと早々に疲れが生まれる。心の重力に体を重くさせれば、目に付くのはベンチではなくブランコで、仕方なしにそれへと腰掛けた。
 ルナサードは相変わらずといった様子で直立し、清佳の行動を瞳に収めるのみだ。
「そういえば、普段は休暇をどう過ごしてるんです?」
「ガウシアの整備とレポートの作成を」
 休む気がないと思った清佳は話題の流れを絶たれ、ブランコを揺らす。重力が弱まったここで、それを揺らしても頂上へはたどり着かなかった。ただ、上昇下降が遅くなっているように感じる。
――感覚のせいかもしれませんが。
 はっきりとしない振り子運動は、そのまま清佳の心を表すように。彼女はえっと、と短い言葉を何度か繰り返した。ルナサードは黙ったままで、思わず清佳が、参りましたとつぶやいたのは、午前八時を間近に迎えた頃だった。十分もすれば飽きていたブランコを漕ぐ行為は、ただ座り時間を潰す事だけに変わっており、変化を見せないのは、彼女を監視し続けている存在だけだ。この辺りの店舗が仕事を開始するにはあと一時間ほど必要だ。それまでに何かあればと思っていた清佳は、結局何もなく時間を潰す結果に、早くも眠気の魔手を感じている。
「あの」
 思い切り、言葉と同時に眠気を吐く。
「何か」
 監視者は即答をやめない。目覚めた時間から変わらぬ声色には、疲れの色すら感じさせない鋭さがある。
「お暇じゃ、無いですか?」
「任務ですから」
 はぁ、と曖昧な相づちを打っても、同時にこぼれるため息に色はなく、誰にも見えぬそれは太陽の色をしていた。

 気がつけば、夜を迎えている。
 案内のできる箇所が増える頃、開放感から各所を回り、気の向くままに歩けばすでに、公園で見た時計と同じ位置をアナログ時計は示していた。
「そろそろ戻っても良い時間ですか?」
「そのようです」
 時計を一瞥すると、ルナサードが歩を進めた。行き先は分かっている。今日の出発点だ。
「ちょ、ちょっと早足ですよっ……」
 さんざん歩いた今日を示す清佳の足は、棒になるという感覚をはっきりと持ち主に伝えている。感覚があやふやで、そして棒で突かれる脚部の付け根は痛みがある。
――しかも、今日で一番速い歩き方ですっ……。
「戻る時間も指示の内ですので」
 情けない悲鳴を上げ清佳が追従する。
「あ……あのっ……」
「何か」
「今日……すごいいぶかしげに見られてましたけどっ……」
「軍の制服など、そう言う物です」
「なら私服にすればっ……非番ですしっ……」
 振り返る、視線だけのルナサードは昨日の動作そのままで、異なるのは歩き続ける行動だけだ。
「監視任務です。そして、私は不要物を持つ趣味はありません」
「せ、折角の女の子なんですからっ……」
 歩を止め、しかしルナサードは何も行動を起こさない。
「女である以前に私は兵士です」
――参りました。
 何度も思う考えだ。その回数にも同じ感想が追従することに、清佳は少なからず頭痛を覚え、天を仰ぐ。
 外壁に削られた月は、今日も昨日と同じく、形状をはっきりとさせないままだった。

 ルナサードの部屋に戻り、一息つくのは清佳だけだ。部屋の主は変わらず監視対象を見つめ続け、何一つ乱れることがない。
 一つ乱れる物が追加されたのは、午後十時を回った頃だ。兵舎の就寝時間を過ぎてはいる物の、清佳が眠らない限り監視者は眠らない。停滞の時間に生まれた乱れは、ノックの音だ。眠気の薄闇に包まれ始めた清佳が音色に意識を確立させた。ルナサードの応答で、扉が開けば、昨日の伍長が姿を見せる。
「指令です。じゃ、俺は寝ますんで」
 言葉と同時にあくびをした男は、早々に立ち去った。ただ、清佳が気にかけたのは、去り際に男が向けた視線だ。こちらを見ていた。ルナサードではなく、清佳を。
 疑問に首をかしげつつ、ルナサードの行動を見つめる。書類をめくる動きすら昨日と同じで、まるで機械のようだと思いつつ、それを読み終わった彼女に眠る旨を伝えようと考えていた。
「清佳さん」
「はい?」
 待っている間にまどろんでいた清佳が体を浮かせる。布団が一度膨らみ、空気の音色すら聞こえるのは、この変化しない部屋を退屈に思っている裏付けだろうか。
「明日、貴女には再び尋問を受けていただきます」
「あ、はい……そろそろ私、寝ますね」
「どうぞ」
 疑問より眠気が来るなら僥倖だと思い、しかし警戒を改めた。適応か、それとも何か策を弄しているのか、想像を巡らせながらルナサードは布団に潜る清佳を凝視した。
 寝息が続くまで、部屋の主の任務は終わらない。



 六 歩調の変化は己の心


「ルナサード、任務を変更する」
 尋問され、困った表情をする清佳がガラス越しに見える、尋問室隣の控え室には、一昨日工場に待機していた上官とルナサードが居る。
「監視を続けろ、外出はさせるな」
「ガウシアはよろしいのですか」
「それより有用な物が見つかった」
「彼女、ですか」
 ああ、と答え、上官は言葉をひねり腕を組む清佳を見つめた。
「ログも整合が取れた。センサーの不備はない。ならば転移は本物だ。彼女にはその実験に付き合って貰う」
 尋問はもういいぞ、と手元のマイクに上官は告げると、再びルナサードを見た。
「準備に三日かかる。それまではどこへも行かせるな」
「了解です」
 敬礼を終えると二人はガラスを見つめる。
 尋問が終了し脱力した清佳が、机に突っ伏す姿が見えた。

「以上の理由で、貴女を拘束する」
「そう、ですか……」
 慣れてしまってはいた。どこかで跳躍の話をすれば、それを解明しようと、あるいは利用しようとする存在に出会うことは少なくない。清佳の表情はその度に曇った。こういう場合、選択肢は二つある。説得や己の力で立ち向かうか、あるいは諦めるかだ。
――今回は集団ですから。
 彼女は素早く、諦めるを選ぶ。
 何も実験を受けるわけではなく、跳躍を待つ。運頼みと言ってしまえばそうだが、跳躍を初めて三年ほど、命に関わることが無かったことを思えば無難な選択だ。
 予定の期日まで三日、監視されているという居心地の悪さは更に増した。跳躍を望むことはこういう状況以外にない。
「あの」
 本日何度目、何十回目かの言葉を発してもルナサードは答えをよこさなくなった。任務に専念している。それが清佳を余計に消耗させていく。出来る行動は窓を眺める事だけであり、
――それでも、疲れますね。
 夜になれば、欠けた月は昨夜と同じように見えた。
 停滞はなく、日付だけが変わろうとしている。

 翌朝、目覚めが来る。しかし眠りに包まれた時間を清佳は覚えていない。
 ただ、報告書を受け取る伍長とルナサードの姿が清佳のぼやけるまどろみの視界に映っていた。
「了解。報告書は届けておきますが」
「が?」
 男が部屋に入り込む、そして寝ぼけ眼の清佳を指さした。
「彼女、ちょっと借りていきます」
「私の仕事だ」
「許可は貰ってますんで、それじゃ」
「え、えっと!」
 腕を引かれ、清佳は部屋を飛び上がる形で抜け出した。

 清佳の連れてこられた個室は、窓と机、パイプ椅子以外に何もない部屋だ。用途を考えればいくつも思いつくが、この場所でなければという用途が思いつかない。故に、差し出された椅子に腰掛けても落ち着くことが出来なかった。男がゆっくりと向かいの椅子に腰掛ける様子をじっと見つめる事しかできない。
――面接みたいです。
 制服のネクタイを思わず見つめ、言葉を詰まらせた。
「さて、あんたが誰かはよく分からないが……」
「は、はぁ……」
「感謝しときます」
「えっ?」
 椅子にもたれ、虚空を見つつ男は呟く。
「あの人を実験から離してくれて」
「実験、といいますと……」
「ガウシア、っすよ。あれは馬鹿げた行為を止めるために生まれた馬鹿げた実験だ。上の決定とは言え、あれは納得できねぇ」
「教えてもらえます……か?」
「機密……って曹長なら言うでしょうね」
 まあ、俺は構いませんがね。と言い、彼は笑う。
「ガウシアは深海プランクトンのガウシアがモチーフなんですがね。モチーフと同じで光を吐くんすよ」
「ええ、なんとか知ってます」
 へぇ、博識だと言う男の瞳が探る色を見せた。ルナサードほど規則に厳格ではないが、彼は彼として兵士の一面を持っていることが清佳にも分かる。
「最初は他の名前だったらしいですがね。光を放って逃げるため、つまるとこ、ここにあるガウシアってのは重力から逃げるために光を放つから、こうやって名前が付いたってわけです」
「けど、それが何か……宇宙に行けることが馬鹿げてる、と?」
 いや、とまで言い、男は黙る。沈黙が生まれれば小さな喧噪が耳に付いた。部屋の前を通る話し声があった。声が消えた事をきっかけに彼は再び口を開く。
「深海のガウシアは、食われないために光の塊を囮にするらしいっすね」
 清佳が無言でうなずくと、同じく彼はうなずき返した。
「こっちのガウシアってのは……食うから光を出すんすよ」
「それは……?」
 机に両手を置いた男は、結果的に顔の距離を清佳と近づける形になり、少し伏せた位置になった彼の顔から、視線だけが強く見上げていた。
「搭乗者の命、っすよ」
「え……」
「あの光は宇宙へ行くため、自由に飛ぶために必要なもんだ。だけど、どの燃料もそぐわない。結果として命を使うことにしたってわけです。一時間も飛び続けりゃ、大抵の人間は駄目になっちまう」
「それで、馬鹿げた実験、ですか……ルナサードさんは、それを知っていて乗っているんですね」
 男の視線は机に移り、彼は何も見ないといった様子で机にのせた手へ力を込めた。
「まるで機械みたいに、ね。あの人、小さい頃ここに拾われて、自分がどうなろうが命令を遂行するんすよ。俺、見てて辛くなってきますよ」
 自嘲気味に笑い、顔を清佳に向けた。清佳はこの笑みで少し安心した様子で口を開く。
「えっとそれを言いにわざわざ?」
「あー、まあ。連れ回されてるあんたがあんまりにとまどってるみたいみたいだったから、つい」
 困ったような笑みを互いに向けると、頭をかいて男が清佳を見つめ直す。
「彼女ね、お姉さんがいたんすよ」
 いきなりの話題に清佳は小首をかしげ。
「彼女が月までたどり着き、そして死んだ。でも、あの人」
 一拍は、彼の思考のためにあった。
「ただの実験だったように何も反応しなかった。一人で泣く事もしなかった。なんだかこっちがいたたまれなくなりましてね、今日の感謝に至るわけっす」
 思い出す、彼女の言葉。ルナサードは理論上と言った宇宙進出を実行した人物がおり、そして肉親だったということに少なからず衝撃を受け、しかし内心にそれを収めつつ表情を作った。
「こちらこそ、少しだけ分かって助かりました」
「気にしないっすよ」
「ところで、馬鹿げた行為とは……?」
「それは」
 言葉は堅い音色で遮られた。軽い音ではあったが、鋭く堅く感じる理由を清佳は知っている。
「伍長、時間だ」
 ドア越しにルナサードの声が聞こえた。思わず清佳は体を小さく跳ねさせ、パイプ椅子がきしむ。
――気配、急に出てきたぁ……。
 清佳の集中か、あるいはルナサードが原因かは分からぬが、どうか話を聞いていないで欲しいと心に願い、居心地の悪さと罪悪感がドア越しの彼女に感じてしまう。
 対して男は全く様子を変えず。
「ああ、すいませんね。それじゃ、清佳さんでしたっけね。わざわざどうも」
 清佳が安心するような笑みを彼は返すと椅子から立ち上がった。そしてドアを開き、立てた人差し指で口元を押さえた。ばつの悪そうな、悪戯を見つかってしまったような表情に、清佳の心が再び緩む。
 短い笑いが互いから生まれた。



 七 月兎のしずく


 清佳は動く。
――動きたくなってきました。私の、そして、彼女のために。
「言いたいことを、言います」
 無言のルナサードに動きはない。
「私、たくさんの世界を跳躍しました。私のことを悪く思う人もたくさんいました。勿論、友達もいっぱい出来たと……思います」
 清佳の瞳は窓に向けられ、しかし見ることを半ば放棄した、過去に焦点を持った瞳になる。
「美潮(みしお)さん、という人がいました」
――訂正はありますけど、まあいいです。
「その人は人に似せて作られた……アンドロイドで分かるでしょうか。まあ、そういう人なのですけど。彼女と会ったのは跳躍が始まって数回目ですけど、とても記憶に残る人でした」
――言っても問題はないですよね。別の世界ですし。
「彼女の姉妹は皆、人のために生まれたんです。道具も、人の立場もそうだと思いますけど、誰かのために生まれるのがそう言う物ですからね」
 ルナサードの視線がかすかに動いていた、清佳はそう思う。
「でも、美潮さんは変わっていきました。誰のせいでもない、自分のせいでもない。言うなれば、自分のために」
 胸元が温かくなったと清佳は思う。あのすばらしい思い出を見つめ直す度に、清佳は跳躍に対して少しだけ感謝する。
「制作者さんを愛してしまったんです。しまった、って言うのは少し失礼ですけど」
 不思議ですよね、と告げた清佳の視線は現実へ戻り、ルナサードを見つめた。
「回りだけでなく、自分を見つめ。自分の胸で叫ぶ思いに気付いたんですよ」
 視線は真っ直ぐに、ルナサードを射貫く。こもった力が溢れ、腰掛けたベッドのシーツを掴んでいた。
「以上です」
「お疲れ様です」
「え?」
 疑問の声に、ルナサードは何も応えない。
――だめでしたか?
 己の内に疑問を秘め、新たな言葉を練る。今できることはこれしかなかった。考えに詰まり、窓を眺めても変わらぬ月がある。変化のないことに少し気が滅入る。だが、彼女の思考は止まらない。止めたくなかった。
――たとえ独りよがりでも。私の跳躍が無駄でないことを。
 出発前の思いを繰り返し、月をにらみ返した。

 期日前日、清佳は動かなかった。目をつぶり、思索を続けている。独りよがりの算段を続け、まとまったいくつかの答えに自嘲する。そんな繰り返しを行い、何も行動を見せぬままに夜を迎えた。
 暗闇に慣れたまぶたが月明かりを感じ、清佳は目を開けた。午後七時、夜は始まったばかりだ。
「ひとつ、お願いがあります」
「何か」
「明日を迎える前に、外に行きませんか」
「命令は絶対です」
「ここの屋上でも、いいですよ」
「同じ言葉を言わせないでいただきたい」
 表情を読まれぬよう、清佳はつとめて真顔を維持し、数秒の沈黙を置いた。きっと自分の表情は情けない物だと思いながら、雑念をまとめ上げ、算段の補助に回す。
「しょうがないですね、なら跳躍するまでです」
「……仕方ありません」
 しめた、と思った。
 機械的な彼女に独断と、堅い指令にほころびを与えた。それは他人にとって些細なことではあるが、相手はルナサードだ。流れは支配できるかもしれない。
 清佳は拳を固め、先導を始めようとするルナサードに追従する。焦りを殺すため、歩調は先導に従う。

 屋上はコンクリートのみで構成され、落下防止のフェンスはない。ただ、堅く分厚い囲いがあるだけだ。
「ここで、何を?」
 短い文節はルナサードの疑問で、己の言葉を紡ぐことに苦労している様子があった。
「空を見てください」
 ルナサードの顔を見つめ、そして誘うように空へ。彼女がうろたえの表情をしていることを確かに見た。誰にも命令されない行動が不安なのだろうと思い、清佳は空への視線を誘った。
――言葉を聞く余裕も無さそうですし。
「今、怖いですか?」
「別に、なんとも……」
 応答が遅れたことを清佳は理解する。自分の表情を守れるか、それも不安材料であった。だから空を見せた。
「月って、こんな形じゃないって分かります?」
「わかり、ます。外壁が、隠して、いるから、です」
「でも……ずっとあるんですよ? 貴女はここにいる。それと同じです」
「ここに、いる……当然の、事です」
「でも……」
 清佳の瞳は月からルナサードへ。欠けた月と同じ色をした金髪が揺れていた。清佳の動きに長い休符があり、ルナサードの視線は動く。
――とても弱く見える視線。
「今の貴女って、どこにも居ませんね」
「どういう、ことですか」
――ああ。
 かつて経験した恐怖を思い出した。命を奪われる寸前だったように思う。その時、目に焼き付いた表情を思い出し。
「!」
 ルナサードが身構えた理由は簡単だ。その時の表情を行えている清佳が居るからだ。
 月に照らされ、清佳の瞳は黒の色彩を薄くしていた。まるで猫のようになった瞳孔が、ルナサードを縫いつける。そして、口元が笑っていた。口角を上げ、皮肉に満ちた、しかし満面の笑みというニュアンスも混ぜ込んだ、狂気に近い表情だ。
「命令がなければ何もない。そう、貴女は何もない」
「何……を!」
「命令に従ってもお姉さんを越えられない、空っぽの貴女」
「言う、なッ!」
 ルナサードが消えた。清佳の頬に熱い風が走る。そうして清佳は夜空に体を浮かせると、倒れ込む。
 殴られた。
 倒れ込んだ清佳に覆い被さるようにしてルナサードが顔を近づけた。
「貴女に、何が! 分かるッ!」
 熱くなった頬が、二度、三度と熱を増した。痛みに顔をしかめた清佳は、頬が腫れた事を実感しつつも、ぼんやりと彼女の行為を見つめていた。
 熱い、そして暖かい物がいくつも清佳の顔を包む。
――泣いて、いるんですね。
「私はっ! 軍に拾われて……! それ以外に! 生きられない……存在だから! だから! 私は! 私だッ!」
 拳を振るい続けるルナサードの首元から銀色の光が見えた。
 兎のマークを称えたルナプロジェクト、サードと記されたドックタグだ。
「アイリさん、って言うんですね」
 腫れた頬で、無理に清佳は笑う。
「アイリさん、アイリさん」
 何度も名前を呼ぶ。ルナサード、アイリの拳は清佳を責めることをやめ、暖かなしずくを拭う掌になった。
「これが、貴女だと思います」
「わた……し……っ……うぐ……っ」
「ここで削られて、形を作ったと思いこんだ貴女の中に……」
 アイリの金髪を透かし、月が見えた。
「自分で決めた壁から解き放たれた、ここにいる貴女」
「わた……わたしっ……えぐっ……月……みたいっ……」
――分かってるじゃないですか。
 清佳が微笑み、アイリの髪を一つ梳いた。
「今日はきっと満月ですね。明日は、貴女がもっと進めるために、研究を受けようと思います」
「清佳……さんっ……」
「新しい貴女の、お祝いですよ」
 覚悟は決めた。
――自分で動くなら、後悔はないです。
 瞳を閉じ、熱の溜まった顔を誇らしく思った。
――殻を破る前に色々されちゃいましたね。
 苦笑がすがすがしい、清佳はそう思う。
「わた、し……清佳さんに、悲しい、結果を、与えそうで……」
 清佳は思う。再びの慟哭は、きっと良いことだと。
「友達、って。こうやっても作れるんですよ」
 アイリをあやし、清佳は微笑んだ。
 泣きやむまで背中をさすり、夜風から彼女を守るためにそっと包む。
 今後のアイリを思えば、幸いな夜だと感じる。

 落ち着いたアイリが、ぎこちない表情をして感謝を述べた。清佳は素直に可愛らしいと思い、満面の笑みを返す。
「うぅっ」
 軽くうめき、苦笑した。殴られた頬が痛んだ。
「ごめん、なさい……」
「いいんですよ。さあ、明日まで眠りましょう」
 小さくアイリがうなずき、階段まで歩を進めると、立ち止まる。やっぱり、と小さくつぶやき、アイリは大きく振り返った。
「私、清佳さんに、もっと、他の、世界を、回っていて、欲しい、と思い、ます……」
「貴女が困りますよ?」
「なら……なら……」
 下を向くアイリの視線は、己の胸中を見つめている。拳は強く握られ、声色は少しずつトーンを上げていった。
「私と、ガウシアの、可能性を、見せて、やります!」
「えっ……?」
「姉に、できて、私に、出来なかったこと、一つ、あるんです」
 アイリが月を見た。きっと、と清佳は思い。
――月ではなく、お姉さんを見ているんですね。
「だから、今から、飛びます」
「私……すごい事しちゃいましたか……?」
 困ったような笑みをアイリに向けた清佳の表情は、いつもの顔を作れたと自己確認する。
 垂れた眉につり目はアンバランスに、気弱とも思える表情が、今だけは困った我が子を思う母のように作られた。
「とっても、素敵な、ことです」
 アイリの手はドックタグを握っている。月兎の紋章を。



 八 出発するための再出発


 今宵は、飛ぶために。二人で固めた決心は、滑走路への不法侵入として実行される。
 空を飛ぶということはアイリの命を削る。そして飛ぶだけの無駄な旅だ。だが、今の彼女は命など惜しくないと思っている。飛ぶことで削れる命に、アイリは死より生命の輝きを感じている。
「私の、再出発です。付き合って、ください」
「はい、私で良ければ」
 差し出されるアイリの手を掴み、清佳は浮いた。アイリが上空へ彼女を振り回したのだ。振り回される清佳は身じろぎもせず、されるがままに回る。そうすればガウシアの後部シートにぴったりと収まった。
「いきます」
 短い言葉と共にガウシア特有の駆動音が響く。
――いつ聞いても鳥のようですね。
 死を呼ぶ怪鳥を思ったかつての音色が、今では頼もしいと思えた。
 鋼の鳴き声は次第にボルテージを上げ、底面に光を集めていく。光が底面よりあふれ出す頃、ガウシアの振動は地へ伝わらぬほどに浮き上がった。
 軽いうめきが聞こえる。命を消耗している証は飛ばす度に生まれる物ではある、しかし今回はより強くアイリを責め立てた。彼女の意志が定格動作を望まない。いつしかガウシアの駆動音は汽笛のように鳴り響き、周囲へ再出発の合図を送っているようだった。
「アイリさん。どこかあてはありますか?」
 返答は一拍遅れ、あらゆる感覚を噛みしめてからだ。
「そうですね」
 短く静かな言葉はごく当たり前の様子だったが、騒がしい駆動音に包まれていてもなお聞き取れた。返答の主は切り取られ、小さな円形になった空を見上げる。
「行き先は――未定。目的は」
 アイリの腕に力がこもる。そうすればハンドルは引き絞られ音を立てた。手首をひねりスロットルを全開にすれば、蹴り飛ばされたようにガウシアが跳ね、空を目指すべく上昇を始めた。
「心の、自由!」



 九 逃げないために逃げること


 光を引き、ガウシアが舞う。上へ、ただ上へ。順調に縮小する発着港の誘導灯と管制塔の明かりが彼女たちの高度計だ。
 天井都市が近づく。上下に囲まれたガウシアが、イルミネーションのトンネルを貫いて光の槍を描いた。
 進む先、円筒形のベースから見えた小さな空には、外壁に切り取られた月が見える。
「私の命、自分のために、燃やします!」
 苦痛を混ぜた声は、清佳の眉を迷わせない。強い意志の混じった声は苦痛より産声に聞こえた。新しいアイリがここにいる、そう実感した清佳は引き留めず、後押しの形で彼女の腰にしがみついた。
「もう、ここには昔の私で、戻ってこないことにします」
「あなたは生まれ変わる、けれどここで生き続けるんですね」
「もう、盲信や疑うことよりも、自分で考えて良いと思うまで、頑張ってみます」
「厳しいですけど……頑張ってください」
「あなたも!」
 清佳が笑う。彼女は多くの束縛があるここで、道具として生きるのをやめたのだ。言葉の平坦さが薄れている。そして、とぎれがちの言葉が増えた。考えた結果に話す様子がよく分かる。
 とぎれた話し方だが、行動は真っ直ぐに。光の軌跡は槍から変化し、針のごとく細さと長さの双方を持った。それは、速度を上げたことに他ならない。
 背任の、理由を、言えと、言われたならば。
 そうアイリが呟いた。
「答えは――月が、とっても、綺麗だから、です!」
 ガウシアのメーターが、清佳の毛先が、アイリのマフラーが。
 全てが加速した事を全力で示す。
 清佳の視界の中、光溢れる建造物が怒濤の勢いで迫り、流れていく。黒の建造物が生む岩山のような影を、白色の獣が光を放ち、飛び跳ねる。最早獣となったガウシアを止めることなど、己の意志以外に不可能なことだ。

「どこ行くんですか?」
「分かりません! でもガウシアも、もう戦争の、道具として、あるだけじゃないって、思いたいんです! 私、歩かされるより、進まされるより、飛び込みたい、です!」
 ビルをかすめ、ガウシアが飛ぶ。ガラス窓の振動すら聞こえてくるような感覚がある。ガウシアの放つ光の防護は宇宙の進出すら可能であるとアイリは言っていたが、あまりにも頼りなく感じる薄さを実感した。
 しかし、清佳の不安は少しずつ溶けていく。彼女の両手が掴む、アイリの腰、否、体温によって。発熱していた。それは、手をつないだときの体温よりも高く、勿論病でもない。
「伝わってきます……」
 清佳が目を閉じる。それでもまぶたの裏が輝いて見えた。暗闇に浮かぶ瞬きがアイリの命に見えた。あれほど強く燃えさかるだけであった命の輝きが七色に浮かぶ。
――瞳の裏でも輝いて見えるほど、意志を感じます。
「もう、ガウシアは皮肉でも呪いじゃないんですね。先に進むための力に」
 瞳をあけた。暗順応した瞳にイルミネーションの光は鋭く、眼窩に痛みを覚えたが、痛みをこらえ、意志をのせるために垂れたまま眉を無理につり上げ、眼光鋭くアイリの前を見つめる。前だけを見つめるアイリは初対面のように自分を気にしない。邪魔はしたくないと思い、清佳は存在と意志を乗せ、アイリとつながる手に力を込めた。

 建造物が動き出した。銃口のライフリングに似た見た目をしていた建造物群が警報と共にこちらをふさぐべく団結しだした。
 一つ二つと回避すれば、軌道は歪む。しかし、とぎれることも減速もせず、結果として慣性は二人に襲いかかった。しかし、物理法則にも彼女たちは諦めない。前へ、前へ、全てを貫く命の光は終わらず、止まらない。
 続く行為に清佳は思い、言葉にした。
「あなたは進むために、自分のために命を燃やすんだと思います」
「はい! ……とりあえず、月でも、貫いて、みますね!」
「ええっ!? それは流石に」
「大口じゃない、です、洒落です。常識だけじゃ、つまらないと、思いました」
 あはは、と快活な笑みが聞こえた。前を見続ける、顔つきの似たアイリの表情を思い、同じような表情をまねてみた。情けない表情になっているに違いないと清佳は思ったが、それでも意志は伝わると思い、それを直さない。
「私、ようやく、動くことを、覚えます……!」
 アイリが初めて笑った。
 微笑みではない。歯を剥く強気な笑みが背後の清佳からもわかり、無理に同じ表情をすればアイリが苦笑する。

 視界に入ってくる光点、建造物の流れが不規則な動きになっていく。建造物の妨害が原因ではない。
 遊んでいる。舞っている。減速はわずかに、楽しみを十二分に。記憶にあるアイリでは決して行わないであろう遊覧飛行だと、清佳は思った。
 円筒の都市が回り、それを回避すれば月が八の字で共に踊る。不意に現れた、完全に進路をふさいだように見えたビルを下降で躱す。建造物移動用の巨大なレールがあだとなった。くぐり終えれば星空が一回転を見せた。
――乗り物酔いしない体質でよかったです。
 内心微笑み、清佳は体を前に倒す。進む意志を前のアイリに理解させるために行う行動だ。
 主の捕縛は気にしない。銃口のようなこのベースが見つめる照準、月へ向けて束縛からの逃避行は続く。

「抜けます!」
 黄金に輝く月が自由になっていく、アイリの言葉と同時に、清佳は新たな月を見た。青い月は眠りの浅い都市の夜が生み出した夜空だ。
「満月だったんですね!」
「私も、私の、心も……自由に、なりそう、です!」
「なれますとも!」
 清佳の返答がアイリの加速行動に伝わり、そして、
「出口はもうすぐ!」
 青い月が二人を包み始めた。

 アロイベースの頂上が見え、一瞬でそれを抜けた。抜け出す瞬間、風がゆらめく。円筒の庭園から抜け出す者を惜しむかのような粘性が体を包み、その壁をぶち破る。
 下方へ向かう風に清佳は顔ごと伏せ、その頂上を改めて認めた。
――観覧車みたいですね。
 無数のパラボラアンテナが円筒の断面に沿って生えていた。それは首をかしげ。
――こちらを見ているかのようです。
「!」
「どうしました?」
 息をのむアイリの様子に顔を上げれば、同じく息をのんだ。
「止めようと、してる……!」
 暗闇の空間に数点、光を放つ水平線がある。
「どうして……どうして!」
 多分、と冷静に告げ、アイリは上昇速度を下げた。
「無軌道な、脱出を、許さない、からでしょう」
 アイリは短く言葉を紡ぐ、ガウシアのコンソールを見つめつつ、だ。
「対空ミサイル、十二発」
 言葉に引くような呼吸を返し、清佳はアイリとつながる手に力を込め頭を振った。
「アイリさんは……物じゃない! 物じゃないのに! 殺すのも自由なんですか!?」
 涙がこぼれ、それは緩やかな上昇にもかかわらず、彼女のほほに水の線を生む。
「清佳、さん……」
 しゃくり上げの息づかいにアイリが目を潤ませ、だが泣くことはしない。
「私、は……」

 最初の一発、それは眼前をかすめていく軌道で飛び去った。
「私は、止まらない!」
 アイリが叫んだ。思わず顔を上げた清佳は、驚きにしゃくり上げすら止め、目を見開いた。
 月明かりに照らされ、清佳からは影に見えるアイリは空を見続けている。近づくミサイルの噴射音は止まらず、しかし清佳の時間は緩やかに止まったような錯覚を覚えていた。
 風に煽られるマフラーが、アイリの頭部を形作る影に重なり、緩やかに舞っていた。
――月兎!
 アイリのドックタグを思い出し、言葉を失った。そして、恐怖や悲しみ以外に胸を打つ物を感じた。
「で、でも……アイリさん、危険です! 冷静に……考えてます、よね?」
 少々落ち着いた清佳が、焦りの思考をまとめ、ようやくの言葉を吐く。まるでアイリのように言葉が短くなっていることは、自分が自分らしくない、慣れていない自分ではないかと錯覚し。
「冷静、という言葉を、忘れて、いました」
 月影が振り返っていく。月明かりを返す三つの点が分かった。二つはアイリの瞳、そしてもう一つは、
――月兎の印……。
「今の私に、ずっと触れていると、きっと、清佳さんは」
 光点の内二つが三日月を作る。
「やけどする、かもしれませんね?」
「それって……男の人が言うような……」
 あやふやな思考は三日月を見つめ、自然と己の表情が三日月を作り出す事を感じていた。
――なんで、迷うのでしょう。
 そして、こうも考える。
――なんで、止めようとしたのでしょう。
「良いんじゃないですか? やけどくらい」
 強く笑う。清佳の三日月は新月になり、返答を予測していなかったアイリの三日月が満月に一瞬変わり、再び三日月に。
「では……そう、します!」
 再び加速をする。今までの加速とは違う。
「お供、多い、です!」
 二発目のミサイルが二人を襲う。しかし、
 かつて二人がいた場所を通るのみだ。

 残りの十発は上空から降下するような形で進んできた。どれも垂直には落下しない。アロイベースへの直撃を避けるためだ。
 三発目が上空を目指す二人を掠め、去っていく。上昇の姿勢を示すガウシアは、尻を地に向け、ほぼ垂直に立った状態だ。
 四発目が前方を塞ぐ形で落下すればそちらに腹を回すようにガウシアは回り、五発目、六発目が頭上を掠めた。風圧にマフラーが踊り、清佳は身をすくめる。
「母なる、星を、離れ」
 アイリのつぶやきが、何故か聞こえた。
「え?」
 視線を前にした清佳が月兎の影を見つめた。彼女は先を、月だけを見ている。
「私は、月に、行きたい……!」
「家出は……子供の冒険心ですよ」
 かつて、どこかの世界で聞いた言葉を返す。短い笑みの音色が返ってきた。
「家出娘は成長して、返ってくるんです」
 私も、と力強い言葉にガウシアの加速が続く。十二発目が追いすがってきた。
「成長、したいです!」
 叫びが最後のミサイルを追い抜いた。
「成長なら……」
 増加した圧力に目を細め、しかし清佳は口を開く。
「今見ています!」

――ルナサード、これは重大な軍規違反である。直ちに帰投せよ。これは命令だ。
 ガウシアに内蔵された無線から声が聞こえてきた。軍事機密のガウシアが束縛を離れ飛び立っているのだ、内容は当然怒気を含んだ警告だった。
「アイリさんは実験のために命を削るわけではないです……! 人のために、自分のために、誰かのために命を削っているって言うこと……忘れてませんか!」
 無線機に届くように清佳が叫んだ。
「清佳、さん?」
「ガウシアよりも……人を殺す道具よりも……いえ……!」
 言葉のまとまらない清佳が、言いたい思いを必死に言葉へ乗せた。まとまらない言葉は相手に伝わないだろうが、思いだけは乗せるべく、彼女は叫ぶ。
「アイリさんは逃げません! 確かに今だけは、束縛から逃げますけど……でも……でも!」
 考えを助けるように星が見えた。無数のきらめきはひらめきに、出発した港を思い出す。
――そう、私も出発するんです!
 そして、息を吸う。
「心は誰にも縛られません! 月を見ましたか? あなた方は……」
 ようやく見えた満月にアイリの心を投影した。外壁が隔てるこの都市がもはや月を削れぬように、アイリの心はもう丸いままだと思い、信じる言葉を放つために再び呼吸した。
「切り取られても皆を照らし、まっすぐ空にあり続ける、あの丸い月を! アイリさんも、ずっとここで何かを照らし続けて居るんですよ!」
 沈黙があった。音色はある。だが、彼女たちは気を止める事がない。一呼吸の沈黙の後、私は、とアイリが呟き。
「私は……月みたいに、生きる! ずっと、私で、あることを、やめない!」
 アイリが無線機へ意志を叫ぶ。ガウシアの光が増し、速度が上がった。

「意志まで光にして……!」
「これが……本当のガウシア!」
 月を貫く、その言葉を清佳は思い出した。
 彼女たちは地球を離れ、月への航路を貫いていく。このまま進めば月の中央を穿つ形になるだろう。
 ガウシアを包む光が熱も、空気も守っている。その裏付けに気付く前に、
――あれ? 普通にいけるって思ってますね。
 疑問すら加速は振り落とし、微笑みだけが清佳に残った。 迷いはすでに、街へ落下した錯覚があった。
 背後に輝く地球は、生活の光がある。
――迷いの焼却炉、でしょうか。
 詩的な発言が生まれる月と母港の地球を結ぶ道は、ガウシアの光が細長く結ぼうとしてた。
「清佳さん、私が月なら、このガウシアの光は貴女の心だと思いたいです!」
 周囲の光が歪む、尾を引いた。速度の上昇が際限なく行われている。
「私……なります……なりたいです!」
 清佳が叫ぶ。そして、胸が痛んだ。
「っく……もう……跳躍っ……」
「清佳さん……?」
「もう、他の世界に呼ばれて居るみたいです……でも……もう少しだけ!」
「はいっ!」
 月が近づく。無機質な様相が露わになると、清佳の跳躍したくないという意志が強まる。
――近寄ったらでこぼこで……寂しくて。
 彩ってやらねばと思う。ガウシアの光、命の光で。
「間に合って……私の心! アイリさんとつながって……!」
「いっけぇぇぇぇっ!」
 アイリが思うまま咆吼すれば暗闇が待っていた。だが、感覚は慣性をもてあそんだままの自分を裏付けている。
――光の速度までたどり着いているのですか!
 しばらくすると、慣性も収まり静かに、音色が消え失せた。
「え……跳躍……したのですか?」
「清佳さん?」
「あ……」
 月があった。それも、背後にだ。
「どうやら……成功したみたいです」
「すごい……!」
 月の裏に光はないなずだった。だが、
「ああ……ガウシアの力です……ね……」
 七色に輝く月は確かにガウシアの光に彩られていた。
「清佳さん……私、こうなります」
「はい……っ……」
 微笑みが何もない空を背景としたアイリに向けられる。
「この先はまだ何もないけれど、次の星にたどり着くまで! そして、たどり着いたら、その先へ……!」
 はい、と伝える前に、彼女は跳躍した。
「清佳さん……ありがとう……」
 ただ一人、輝く月を見つめ、アイリは微笑んだ。
 月の裏に眠るルナファースト、アイリの姉が残したドックタグが宇宙を漂っている。

――アイリ曹長殿。お疲れ様です。
「伍長です、か。何用ですか?」
――可愛いっすね。そのしゃべり方。
「……こほん。それで、用は?」
――戻ってこられるのはいつですかね?
「ちょっと、わかり、ません」
――俺も説得手伝いますよ。
「ありがとう」
――実はね。俺、あんたの事、わりと心配してたんだ。
「ありが……とう」
――泣くなよ曹長殿。美人が台無しだ。
 月に小さな衛星一つ。それは誰にも名前を付けられない。
 漂う衛星が、ドッグタグにまとわりつく。
「私、頑張れるよ、姉さん」
――清佳さんも、がんばって。
 呟く言葉は無線に乗らない。



 十 とりつく島 


 仰向けに倒れ、後頭部を打ったのは清佳だ。痛みを押さえ、しばらくのたうち回る。痛みが治まると、大の字のまま空間を眺めた。鋼色の天井に蛍光灯、状況把握の参考にはなりがたい光景だ。
「アイリさん、元気で」
 誰にとも言わず、虚空に言葉を投げる。

「なんだか不思議なことになっている」
「まったく、不思議だなぁ」
「どうしたのかしらね」
 三人分の声は、どこからか聞こえてきた。体を跳ね上げた清佳が周囲を見回しても、音色の変化はない、すなわち。
――放送?
「えっと、あのぉ……」
「お、なんだ。しゃべれるじゃないか」
「言葉が通じる。興味深い」
「いらっしゃい、私達の船へ」
 はあ、と曖昧な相づちを清佳は返す。
 彼女の跳躍旅行はまだ始まったばかりだ。

続く

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